活躍する泉萩会会員

武田 暁さん

元東北大学理学部長
武田 暁さん

【現在】東京大学・東北大学名誉教授、平成基礎科学財団理事


1924年東京生まれ。専門は理論物理学(素粒子論)。1946年東京帝国大学理学部物理学科卒業。1950年同大学院中退。神戸大学助教授、東京大学原子核研究所教授・同所長、東北大学理学部教授・同理学部長などを歴任。現在、東京大学・東北大学名誉教授。主な著書に、「素粒子」、「場の理論」、「物理科学への招待」、「形の科学」、「脳と物理学」(裳華房)、「脳と力学系」(講談社)、「脳は物理学をいかに創るのか」(岩波書店)、Development of Physics, EOLSS, UNESCO、など。

今回訪問した会員は、元理学部長で名誉教授の武田暁さんです。武田さんのご専門は素粒子物理学ですが、最近は脳科学の研究も始めたそうです。「脳 は如何にして科学をつくるのか。その過程も同時に理解しなければ、本当のことはわからない」と語る武田さんに、その科学観や、科学と脳の関係などについて伺いました。


■「脳は自然科学をどのようにつくるのか?」を理解したい

―武田さんが思う、そもそも科学とは何ですか?

 ふふふ・・・(笑)。そんな難しい質問は、初めて尋ねられましたけど。科学って、自然科学のことですか?それとも、もっと一般にいろいろな科学を含めてですか・・・。ちょっと考えよう。そうですね、僕は、自然科学のことしか、喋りませんよ。自然科学に近いやり方で学問をつくっている経済学とか、あるいは言語学とかも、科学と言われていると思うのですが、自然科学だけについて喋ります。

 自然科学とは何か。一言で返事をするのは、とても難しいと思うのですが、自然の中で、生き物も含めて、いろいろな変化や、いろいろな現象が、起こっています。

 個々の自然現象を理解するためには、いろいろな現象をひとまとめにして理解できるような、ある種の法則、多少、抽象化した規則性を見つけて、それに基づいて理解する、というような手法を用いる学問が、自然科学だと思っています。したがって、自然現象の理解には、ものごとを見ているだけではなくて、やっぱり、ものごとを多少抽象化したイメージを頭の中に自分で描くと言いますか。頭の中の世界をつくりあげる操作も大事なのですね。そこで、この頃は、心の中で自然の法則をつくりあげるプロセスが、どういう風に起こっているかを理解しなければ、本当は、自然科学とは何かはわからないと思っています。

 ですから、僕は物理、特に素粒子物理をやっていたのですが、ここ15年ほどは、そういう頭の中で描く世界がどうやってつくりあげられるかを同時に理解しないと、どうも本当のことはわからないという気がして、脳科学に凝っているのです。だいたい、自然科学とは何ですか、という質問にひとことで返事をするのは、本当はよくないことで。そんなことは誰にもわからないことですね。

―なぜ誰もわからないのですか?

 それは、科学がどうやってつくられるか?という過程を理解するには、まだ不十分な材料しか揃っておらず、そういう脳内イメージがどうやって形成されるかを、多少、論理的に理解する方法は、まだ始まったばかりだからです。ですから、「科学とは何ですか」という、人の心に問いかけるような質問に、うかうかと答えるのは間違っていると思いますね(笑)。返事をしないのが、正解だと思います。

 ただ、一般の人から「科学とは何ですか?」と聞かれた時には、「科学はおもしろいよ」とか「ぜひ自然科学をやりなさい」とか、ある種の教育的な目的があるときは、「科学とはこういうものですよ」と無理をしても返事をする方が良いのかもしれません。


―もう少し具体的に言うと、どんなことが必要だと思うのですか??

 脳の中でどんなプロセスで自然のイメージの形成が進行しているかを、もう少し具体的な脳内過程に基づいて、ステップ・バイ・ステップで、理解する必要があると思いますね。

 自然科学と人文科学の違い、その一つは、自然科学は積み上げ方式なんです。自然科学は、ある種の重要な実験、あるいは観測結果の理解を積み上げることで、一つの学問体系をつくっています。例えば、400年前にニュートンがニュートン物理学をつくりあげましたが、それは今もって、ほとんどの場合に成り立つ物理学として使われています。また、まだ100年ほど前かな、アインシュタインが相対性理論をつくったのですが、彼の考え方は今もって、ほとんどの場合に成り立つとして、物質世界の理解、宇宙の理解に使われています。そういった歴史的な積み上げがずっと続いて、伝承され、一つの学問体系をつくっています。これは、文系の学問とは、だいぶ違うのです。(文系の学問では)積み上げ方式が必ずしも成立していません。

 そのような積み上でつくられた科学の成果は、非常に時間をかけて、あるいは多くの人の力を使って、できあがりました。ですから、それを理解する際には、多くの人が長年かけてつくりあげてきた考え方、あるいは自然の法則の理解の仕方を、我々が自分の心の中にイメージとしてつくりあげる操作をしているに違いないのです。けれども、それが脳内でどのように行われているかをはっきりさせるのは、けっこう難しいのです。そういうことに少しは理解の道筋をつけたい、とは思っていますけれども。


■ちょうど日本語の文法を聞かれるようなもの

―どんなところが難しいのですか?

 例えばですね、人は多くの事柄を理解する時、あることが起きたら、例えば「A」ということが起きたら、いずれ「B」ということが起きる、という因果関係を通して、理解する場合が多いですね。

 それは、ある意味で論理的というよりも直感的でしてね。「Aに近いこと」が起きたら間もなく「Bに近いこと」が起こると思う感覚、感じ方、そういうものが、見ている人の心の中に植え付けられていきます。ある種の科学者は「自分はインスピレーション、直感に基づいて研究をしている」と言っています。そして実際に起こったことに近いことを実現できるような実験装置などをつくって、実際に、自分の直感が正しいかどうかを確かめる。まぁ、そういう方法で研究を続けている人が多いですね。その結果、「A」と「B」との因果関係がはっきりする。そして「A」と「B」との間をつなぐ法則性もはっきりする。それから「A」だけでなく「A'」「A"」といったいくつかのことが、「B'」「B"」に導くという少し広い物事にも適用できる規則性をも同時に理解する。そんな研究プロセスをとっています。

 本当に言ったかどうかはわからないのですが、例えばアインシュタインなんかが言っていることは、「自分は自然現象のイメージを頭の中に描いて、それに基づき、あるいは、それに導かれて仕事をしてきた」と言ってます。それは、ある意味で絵を見たり描くときに、「あぁ、こうだ」というインスピレーションが大事だと言っているようなものです。これは直接アインシュタインに聞いたわけではないけども。それから小柴昌俊さんには、僕は年に10回くらい会っているのだけど。小柴さんに言わせると、彼はインスピレーションで仕事をしている、と言う。

 人間の脳は、いろいろなことをやっているのですが、脳をいろいろ調べると、必ずしも論理的な思考には向いていないのですよ。「A」だから「B」、「B」だから「C」というような一連の論理のつながりを実行するには、脳は必ずしも向いていないのです。ですから、相当な訓練をした人のみが、ある程度、論理のつながりを展開できる。ですが、多くの人はそんなことをせずに、途中を省略して「A」なら必ず「X」が起こるという、ある種の飛躍した、けれども直感で物事を理解し、それに応じた行動をとることをしているんですね。論理的思考の成果は、多くの試行錯誤を経て歴史の産物として蓄積されていき、自然科学を支える体系をつくっているのですが、それは簡単にできるものではないのです。

 論理のワンステップごとに相当な試行錯誤、あるいはたくさんの過ちを犯した後で、それが正しいことが示されて、人の心の中で、そういう理論的理解をするような、ある種の記憶回路が植えつけられていく。そういうことを通して、やっと科学の体系が一応できあがっているので、そう簡単ではないと思うのですけどね。

―どんなところが簡単ではないか、もう少し詳しくお話してください。

 こう言う方が良いかもしれません。例えば、言語ね。人がどうやって言葉をしゃべっているかを、この数年は一生懸命調べていたのですよ。言葉の場合は、誰でも、話す言葉を聞きながら、非常にたくさんの単語を覚える。そして単語のつなげ方、文のつくり方を覚える。そうやって4歳くらいになると、誰でもわりと自由に喋れるのね。自分の国の言葉というか、自分のまわりで話されている言葉を。

 人はそういう風にして、ある程度文法に沿った文を、いくらでもつくれるようになる。けれども「さて、文法とは、どんなものですか?」と文の構成の仕方を聞かれると、ほとんどの人は返答に窮する、というか、正しく返事ができない。つまり、ある種の経験を通して、言葉を自由に、わりと正しく喋れるという事実が一方であり。他方でどうやって文をつくるかという文法をワンステップごとに説明するのは、なかなか難しい。

 それと同じで、いろいろな自然現象を見ていると、直感的に「こういうことが起こったらこうなる」とある程度はわかるのですが、なぜそうなるかを説明するのは難しいですね。直感も必要ですし、ワンステップごとに積み上げて論理の体系をつくるのも重要なのですけど、多くの科学者は、直感に基づいて、新しいことを見つける。けれども、それを体系化するのは、なかなか難しいと思うんですよね。

 だから、科学には二つの面があって。皆さん、ある程度両方使い分けていると思いますけど。そのうち論理的思考がわりに強いのが、他の学問分野と違った自然科学の特徴だと思います。

 僕も、「英語の文法はどうか?」と聞かれると、ある程度は説明できるのですが、「日本語の文法はどうか?」と聞かれれば、そんな不必要なことを返事する気も起こらないし、答えようとすると結構難しいですね。直感的にわかることは、説明しろと言われたって、そんなことは面倒くさいというか、そんなことは不必要だと言って、避けることがありますが、ちょうど日本語の文法を聞かれるときのようなものです。つまり、人の心の中にはなんとなく無意識のうちに習得したことと、意識的に習得したことが混ざっているのですよ。まぁ、サイエンスというのは、わりと後者の方が大きなウエイトを占めているかな、と思いますけど。論理的に理解するようになると、それが後の人に伝承されて、ある程度状況が変わっても永続するような事柄が積み上がっていくのではないでしょうかね。本当にそうなのかはわからないけど。

―「意識的に習得したこと」=「論理的思考」、「無意識的に習得したこと」=「インスピレーション」で、対応はしていますか?

ある程度ね。

―1:1対応はしないのですか?

 例えば、赤ん坊が4歳くらいまでで言葉を覚えるのは、非常にたくさんの、まわりで話している人の言葉、特に母親の言葉を聞いているからなのね。いちいち説明を受けているわけではないけれども、繰り返し聞かされる言葉に対しては、何となく感覚として、「これは、こういうことを言っているんだ」という意味までも付随して理解していくわけです。ですから、いろいろな自然現象をゆっくり眺めている人は、たとえ理由は不明であっても、「こういう種類のことが起こっている」と直感的に理解するのではないですかね。そういう面が大事なことは確かで、だから「科学者は自然をよく観察しなさい」と言うわけね。

 確かに、よく観察しないといけないのでしょうけど、同時にある種の科学者は、「非常に理屈立って、論理的にものごとを理解する訓練をしなさい」と言うのです。そちらも大事と思いますけど。どうなんですかね、本当のことはわからないですね。


■対応にゆらぎのある細胞が、絶対に間違いのない論理的思考を、どうやってやれるのか?

―どうして、本当のことはわからないのですか?

 科学のなかで、特別なものを対象にしないで、極端に抽象化した対象を扱うのが、数学かもしれないですけどね。そもそも数学を、自然科学の一つと言うか、それとも自然科学から外れたものと考えるかは、人によって違うのですが。

 物理では、自然現象を法則化したものは、最終的にほぼ数式で書かれています。ニュートンの運動法則も、アインシュタインの一般相対性理論も、すべて数式で書かれている。ですから最終的に、自然の成り立ちは数式でもって極めて抽象化した形で書ける、というのが、少なくとも今までの歴史です。どうして、そんなに数学が大事なのか?どうして最終的に数式で書けるか?ということについては、何人かの非常に有名な科学者、特に物理学者は疑問に思ってきました。しかし、本当にそうなんだ、と確信を述べている人はいないのです。

 繰り返しになりますが、いろいろな物理法則を極端に抽象化した場合には、今までのところ必ずある種の数式で書ける。数式で書けたから終わり、というわけではないのですが、いずれにしても数式で書けるのは、ある意味で驚くべきことでしてね。ですから、論理的思考が最終的に落ち着くのは、ある種の数学。多分、そういう数学は、実際は、世の中の自然現象を見ながら、数学者が考えついた姿かもしれませんが、ある種の数学で表わされる。

 自然科学というのは、最終的には、個々の自然現象ではなくて、類似の自然現象を一括して説明する自然法則、類似の現象をどんどん一般化すると、あらゆる現象を説明する一般法則を探し出し、てそれを数式で表すことが最終的な目的だと考える人もいるのです。

 じゃあ、生物学はどうかと言われると。生物学や化学は物理学の成果を使っていることは確かですが、たとえ一般的な数式で表わされる物理法則がわかったとしても、そういう極めて複雑な生物現象を、すぐに説明するのは難しい。

 それでも、生物を含めて適用できる物理法則が、数式の形で書かれているのですね。複雑な現象はその式があるからといって、そう簡単に理解できるわけでもないのですが。いずれは理解する道筋ができると思っているのですかねぇ...ちょっとわかりませんけど。

 要するに、自然科学の極端な見方としては、一般化した数式に到達するのが最終目標と考える人もいるのです。今までの歴史が、それをある程度裏付けていますから。科学全体の流れの一つとしては、そういう方向があるのですね。

 けれども一つよくわからないのは、科学の流れはそういう方向だとしても、科学は人間がつくったものです。ですから科学者は、脳内イメージとして、自然法則の理解の仕方、あるいは、自然法則の記憶の断片を脳の中に仕舞い込んでいなければ、折角つくりあげた、そういった数式の意味すらも理解できないと思いますね。

 では、数学とか何かを脳の中でどうやって理解しているのか。つまり、どのような脳内イメージをつくりあげているのか。これもなかなかの難問でしてね。脳は生き物で、非常にたくさんの神経細胞の集まりです。細胞は、ある意味で生物の最小単位ですね。生き物には、融通性があります。あることが起きた時、それに対応して、ある反応を細胞が起こす時、必ずしも1:1の正確な対応をしないで、いろいろな対応のゆらぎがある。生き物は何でもそうですね。対応にゆらぎのある細胞から構成される脳が、数学のように絶対に間違いのない論理思考をどうやって行えるか?というのは、なかなかの難問です。要するに、絶対に間違いのない論理的思考、つまり証明等の操作をどうして生き物の一部である脳ができるのだろうか?は、本当はよくわからないのです。僕は、それをちょっと気にしているのです。

 脳の中で、数をどう扱っているか?という研究は、少しずつ増えてきていますが、それでも十分でないですね。いろいろわからないことが多くて。それやこれらで、「科学とは何ですか」に答えるのは、時期尚早だと思っているわけです(笑)。宣伝で「科学はおもしろいよ」といろいろ言う時、嘘をつくことは構わないけれども(笑)。極めて正直に答えると、答えるのが難しいと思います。


■抽象化されたものを一体、脳はどこでどのように処理するか

そういうわけで、これから数をどうやって脳の中で扱っているか、もう少し本格的に勉強しようと思っているのです。その前にここ数年は、言葉をどうやって脳の中でつくりだしているか、調べていました。

―それはステップとして、言葉、数、数式・・・と抽象化しているのですか?

 ステップになっているかどうかはわかりませんが、言葉の研究は非常にたくさんされているのですね。言葉を喋っている時は、脳のどこが働いているかも含めて、ものすごく沢山の研究があるのです。それはそれでおもしろいから、いろいろ読んで楽しんでいます。けれども、数をどうやって扱っているか?という研究は、わりと少なくて。ですから、これは比較的未知の分野で、もっとも難しいテーマだと思うのです。研究結果が少ないこともありますし、それから数の方が確かに、言葉よりも抽象化されているかもしれないですが、それをどうやって調べていくかは、難しい問題なのです。ですから、少し自分なりに調べようと思っているのです。

―数をやろうと思うのは、次に数式をやりたいからですか?

 そうですね、脳が数式をどうやって扱っているかですね。最初に数の概念や数の操作を。例えば、1,2,3,4という数が脳のどこにどんな形で記憶されているかは、ある程度はわかっているのですよ。そして、2×3等の操作をやる時、脳のどこが働いているかも、ある程度はわかっているのです。けれども、もう少し難しい数式、例えば、Xが入ったような数式があるでしょう?「3X=1ならXはいくらですか?」というような一次方程式をどのように処理しているかは、まだわかっていないのです。

 最終的には、ニュートンの運動法則やアインシュタインの相対性理論の法則など、みんな式で書かれているでしょう?そういう抽象化されたものを、脳のどこで一体どうやって処理しているかが問題なのです。本当はそこまでわからないと、科学とは何かを答えるのは難しいと僕は思っています。

 多くの科学者は、自然現象は自然の法則に従って行われていて、これは人間がいようといまいと無関係だと思っています。それぞれの人の頭の中の働きとは無関係に、自然法則に従って、ものごとは移り変わっていると思っている人が多い。僕も大体はそうだと思います。しかし、それを物理学や何かに、一つの結果として書き残す時には、科学者の頭の中で自然法則のイメージを何らかの形でつくって理解していると思うのです。それは自分でつくるというよりも、自然現象をたくさん眺めてできた、もしくは偉大な科学者がつくった脳内イメージを写したものかもしれない。

 けれども、それらの成果を全ての人が学習すれば共有できるというのは、同じ脳内イメージを、全ての人がつくりあげられるような脳内過程がなければいけない。そうでなければ、誰もが理解できるサイエンスとしては、おかしいと思うのです。それは言葉と同じで、親が喋っているのを聞いた時、あるいは、まわりの人が喋っていることを聞いた時、子どもがそれを理解するために、同じ言葉を喋れるような脳機能を獲得するというのかな、共通の脳内イメージをつくれなければいけないわけです。

 科学もそういう風になっていないと、おかしいんですね。自然法則は外にあって、脳とは無関係だと言われても、全然構わないのですけど。どうやって脳内イメージがつくりあげられるかを理解しないと、片手落ちだと思っているのです。これが、なかなかの難問でしてね。まず言葉について調べて、それから、ゆっくり数学について調べようかと思っていました。機能的MRIなど脳内画像を使った実験が少し出ていますから、ある程度は議論できるとは思っているのですけどね。

 「科学とは何ですか」という話を、普通の人が相手なら、もっと簡単に答えると思うのですけどね。けれども良く考えると、気になることが多いもので。多少、心の中の働きと結びつけて考えざるを得ないと思っていますけど。

 うーん・・・。科学者で、特に理論物理学者と言うのかな。晩年、まぁ、暇になったためと言うのかな、心の科学に関心を持っている人は、欧米の科学者には結構多いですね。やっぱり、そういうことは気になっておられるのですかね。

―現役の時は、あまり問題にしなかったけど、そもそもと考えると、やはりそこを問題にしなければ本当のことはわからない、と思うようになるものですか?

そうなるんでしょうね。まぁ、忙しいときは、それどころじゃないですけど(笑)そうなるみたいですね、相当数の人が。


■細胞レベルで見ると、人間も猿もネズミも、たぶん火星人も同じ

―科学をしている私そのものを一歩引いて見て、私が科学をする仕組みを理解していなければ片手落ちといった感じなのでしょうか。もしかすると武田さんの意図とは全く違うかもしれませんが、もし人間以外の宇宙人が科学をすると、宇宙人の脳内イメージは人間と違うでしょうか?

 サイエンスに対しては、人間だけではなくて、猿もネズミも他の動物も、理解の抽象化の程度は違うけれど、たぶん同じように理解していると僕は思いますけどね。だから、火星人が来ようが誰が来ようが、同じ世界に住んでいる限り、同じ理解をするのではないでしょうかね。

―でも、猿を見ているのは、人間です。猿を見ている人間が抽象化した人間の脳内イメージを、人間は見ているのではないですか?

 猿の実験はおもしろいですね。猿に聞けないものですから、猿がどう考えているか、なかなかの難問なのね。皆さん、ときどき気にしているのですよ。ある条件を与えると、猿がこういう行動をした、その時に猿の脳のどこがどういう活動をした、といったことを調べる、たくさんの実験があるわけですね。それを解釈するとき、人間が猿に代わって解釈するわけですから、人間の解釈を押しつけているのではないか、という意見は確かにあるのです。

 けれども、猿に意見を聞くことはできませんが、例えば、猿全体の行動を見るのではなくて、猿が何かをしている時の、猿の脳のある部分の、神経細胞の電気的活動を調べるというような、細胞レベルの実験もあるのですね。人間の脳の細胞は、特殊な患者さんの場合しか調べられませんが、たまにそういうことも調べられています。

 すると実験結果からは、細胞レベルでは、人間の脳と猿の脳は、あることに対する働きはあまり違わない、という風に見えるのね。そういった結果から、猿も人間も同じように、あることについて考えていると、多少飛躍して類推しても構わない気がするのですけどね。

 まぁ、人間が猿に代わって解釈したのだから、人間の考えを押しつけている、という意見はいつもあるのですが。そんなことを言っていると、らちがあかないので(笑)。永久に話がつかないと思います。つまり、ある程度細胞レベルのことを調べると、人も猿もネズミも似たようなことをやっていると思いますね。これは、いろいろ細胞レベルの実験を見た人でないと、わからない感覚だと思います。生物進化の歴史で見ると、そんな違ったことをやるとは思えないですけれども。どうですかねぇ。


■言語と物理は似ている

 ただ、あまり難しいことを言うと、多少現実から離れてしまうので、だから、僕は言葉の問題を調べているのです。言葉は皆さんに身近な問題だし、言葉の科学も案外、科学の一種でして。

 言語学者には、言語学を科学にしたい、特に物理学の真似をしてつくりあげたい、と考えている方が結構多いのです。現代言語学者で一番有名なチョムスキーというMITの先生も、彼の著書で「言語学を物理学のようにつくりたい」と宣言していますから。言葉の構成の仕方と、サイエンスの構成の仕方、特に物理学の構成の仕方は、ある意味で似ていると思っていましてね。

―どのあたりが似ているのですか?

 例えば、言葉には発音記号に対応する「音素」というものがあります。音素を組み合わせて、単語をつくるでしょう?単語を組み合わせて、文をつくるでしょう?物質の世界ですと、素粒子を組み合わせて原子・分子をつくり、原子・分子を組み合わせて、マクロな物質をつくるでしょう?このように、言葉も物質の世界も、ある種の最小単位から、次の複雑なものをつくって、そこからもっと複雑なものをつくる。その構成の仕方は、類似のメカニズムですね。言葉の構成と物質世界の構成は、ある意味では非常によく似ています。

 ですから、言葉を理解する脳の働きは、物質的世界を理解する場合と、働く対象は別ですが、ある意味で同じ脳の働き方を使っているのではないかと思うのです。一部の脳科学者は、言語の脳科学=物理学だと思っていますから。

―なるほど。言葉と物理は似ているイメージがありませんでしたが、構成の仕方で見ると確かに似ていますね。その証拠に、そういうことをやる脳内過程も似ていたら、おもしろいですね。それくらい、似ているのですね。

 ええ、似ていると思いますね。例えば発音記号は言葉によって違いますけれども、例えば英語で言うと、たぶん40くらい発音記号があるのです。実際の言葉に含まれる音素は40どころでなくて、もっとたくさんあると思います。けれども、どんな音素でも、ある程度40に範抽化して分類しちゃうわけね。

 これは、子どもが生まれてから6ヶ月〜9カ月くらいの間に、自分の母国語の中に含まれる音素だけを理解し発声できるというように、脳が変わっていくのです。ですから、その間の途中の音素というものはなくて、40のうちの「これだ」という風に、どんな音素でも決めてしまうのです。これを物質の世界で言うと、いくつか素粒子があるのですが、どんな物質の小さなかけらでも、どの素粒子かを割り当ててしまうのです。このように、事物は連続的に変化するものではなくて、ある程度限られた個数のどれかに割り当てる、といった脳内過程が働いているのです。

 言葉が音素の集まりとして構成できるという認識の仕方と、物質が素粒子から構成できるという認識の仕方は、全く似ていましてね。そういうことをやる脳内過程も、類似なものだと思うのです。あらゆることに、類似性があるように見えますけども。まぁ、皆さんが賛成しているわけではないのですが、一番著名な言語学者が「言語学を物理学に真似てつくりたい」と言っているのですから(笑)、大丈夫だと思いますけどね。


■抽象化されたイメージを、誰でも同じように脳内に描くことができるのか?

 なぜかは知らないですが、物理学ですと、前にお話したように積み上げ方式で、ある法則性が見つかると、それが全く駄目になることは、ほとんどないです。「こんな条件の時には必ずしも成立しない」と成立の条件が狭まることはありますが、ある程度、長期的に古典として生き延びて、その次の段階の基礎になっているのですね。化学は、ある程度物理を基礎にしていますから、類似だと思うのです。生物学もDNAレベルになると、やっぱり物理学と同じような積み上げ方式になっていますから。自然科学はそうなのですね。

 一方、人文科学になると、例えば法律学ですと、ある法律学がずっと伝承されるわけでなく、社会が変わると全く違う法律になります。経済学ですと、全く相容れない経済学がありますね。Aという経済学がもてはやされる時もあれば、次は、急にBに変わるというように、一つのことが長期に伝承されることは、わりに少ないと思うのです。ですから、古典的に積み上げられた歴史的な遺産を相続し、その上に新たなものをつくり上げる過程は、自然科学特有かもしれないですね。よく自然科学者はそういうことを言うのですが、本当はそうなのかどうか、多少疑問がないわけでもないですが。

―どんな疑問があるのですか?

 なんとなくね。要するに、「観察する個々の人間とは無関係に、自然現象を説明する法則がある」という前提に立って、ただそれを皆さんが学習すれば、共通の理解をして共通のイメージを脳内に持つ。だから、ニュートンの運動法則が頭の中にある、と言うのですかね。

 そういった脳内イメージを物理学者、あるいは、物理を勉強した学生さんは持っているのです。ただ、一般の人が持っているかは、わかりませんが。けれども、「学習をすれば同じ脳内イメージをつくりあげる」と考えないと、理解できないですから。多少、本当にそうかな、という疑問はあるわけです。やっぱり、そういった抽象化されたイメージを、誰でも脳内に同じように描くことができるのか?という点で一抹の疑問があるから、何となくね。

―誰でも同じ脳内イメージを共有していると考えなければ成立しないけど、本当はどうかわからない、ということですか?

 そうですね。どうしてそんな共通のイメージを持てるのかというのは、本当はわからないことですね。持たないと理解できないことなのですけど、本当にそんなことをできるのかは、ちょっとわからない。

―みな一緒だと思い込んでいるだけかも?

 そうですね。科学者が共謀して嘘をついている可能性は、いつでもあるのでね。まぁ、ニュートンの運動法則なんかは、別なのですけど。

 最近はね、宇宙全体のエネルギーの73%は「暗黒エネルギー」と言われています。つまり、星や何かの物質とは無関係な暗黒エネルギーが73%ある。23%は「暗黒物質」のエネルギー。これは暗くて見えないけども、物質なのですね。そしてたった4%が、目に見える、光っている物体によるエネルギーだ、という風になっているのですね。ここ数年の宇宙科学は。

 急に変ったのですよ。暗黒エネルギーなんて概念は、10年前には存在しなかった。新しい観測が増えてきてますが、比較的少数の観測事実に基づいた論理的結論として、73%は暗黒エネルギーであるといわれています。そういうものを脳内イメージするのは、人によってできるけど、人によっては難しいですね。けれども、「暗黒エネルギー73%、暗黒物質によるエネルギー23%、普通の物質によるエネルギー4%」を学習して、脳内イメージをしなければいけないですね。

 そんなことは、皆ができるのかどうか。もしかしたら、そういうイメージを持っている人たちが、共謀して嘘をついているかもしれない。そういう面が、科学にはいつでもあるのですね。要するに、理論的推測から、そう言っているわけです。

 だから、そういう結論について宇宙科学者に「共謀して嘘をついているのではないですか?」と質問するでしょう?実際に、たまにしたことあるのですけど(笑)。「そうかもしれません」という返事を、たまにもらいますから。

 つまりね、少数の事実に基づいた推論なのです。新しい科学の発見の場合はいつもそうなのですが、そう簡単に、共通のイメージを楽々と持てるわけではないのですが、ある人が言ったことにすぐ共鳴して、賛同する人もいるので。意図的ではないのですが、知らず知らずの間に、嘘に加担するという面があります。この頃のサイエンスは、特に宇宙科学の場合は、比較的少数の実験から、数式に基づく推論で答えを出すことをやっていますから。まぁ、場合によって嘘かもしれない。科学は、そういう面を持っていると思いますね。でも、ニュートン物理学のように、ほとんどありとあらゆるものに成り立つことが確かめられているものはいいのですが。そうじゃないものは相当多いですから。


■ 人の頭の中に認知されるまでには時間がかかる

―では、いつから成り立つと言えるのでしょうか?

 特に、新しいことを最初に発見した人の言うことは、大ざっぱなことを言うと、多くの場合は、信用されないですね。発見者本人がいつもそう言っていますから。そして、別の実験でその発見をサポートする結果が出た時、多少の時間をおいて次第に賛同する人が増えて、最終的には指数関数的に、一気に賛同者が増える場合が多いですね。けれども「ある新しい事柄が確立した時期はいつか?」に答えるのは、なかなか難しいですね。

 例えば、素粒子の「統一理論」というのがあるのですよ。これは、素粒子物理のあらゆることを結構うまく説明する理論なのですが、それをつくった3人の人はノーベル賞をもらったんですがね。アメリカ人が2人、あとはパキスタンの人です。(※)

※1979年ノーベル物理学賞「電磁相互作用と弱い相互作用の統一理論への貢献、特に中性カレントの予想」(スティーヴン・ワインバーグ、アブドゥス・サラム、シェルドン・グラショウ)

 その理論が出されてから、その理論に基づいて、非常に多くの仕事が出されました。そしてほとんどの場合に、理論的な結論と、いろいろな実験結果が、よく合うという事実がだんだん蓄積されてきたのです。

 じゃあ、何時頃にその理論が実証されたか?というのは、例えば、ノーベル物理学賞がいつ与えられたかを見るとわかるのですが。ああいった素粒子のほとんどすべてを説明する理論は、本当に正しければすぐに授賞対象になるのですけど、いつ認知されたというのがなかなかの問題でしてね。 例えば、僕の身近な経験ですと、1975年くらいかな。僕は仙台にいたのですけど、スウェーデンのノーベル賞委員の先生が来て、芋煮会に連れて行きました。それで、来年のノーベル賞は誰にするのかとか、雑談していたのですけど。その人は「統一理論は大体正しいと思うけど、まだはっきりしていない」という判断をしていましたね。

 1976年に東京で初めて素粒子物理の一番大きな国際会議を開いた時、僕は組織委員長をしていたのですが、その統一理論をつくった人たちも来られたのです。そこで当人に「ノーベル賞はいつもらえるの?」と聞いても、「わからない」と答えていました。その時点では本人も、100%自信があるわけではないのですね。

 ですから、いつ?というのに答えるのは、だいたい難しいですね。つまり、多くの人の頭の中に、その理論が植えつけられても、相当多くのことを説明できるという実験的な証拠が揃っていなくては受け入れられない。科学の進歩とは、いつもそういうことで。全てのサイエンス上の発展は、どれ一つとって、本当に実証されたのか?というと、一抹の疑問は、すべてのことについて残るはずなのです。

 けれども素粒子の統一理論を今は、ほとんど疑う人はいないですね、だから、やっぱり人の頭の中に認知されるまでには、時間がかかるというかな。この理論については、相当いろいろなことについて調べていますから、科学者が共謀して嘘をついている可能性は少ないですがね。ごく一般的に言うと、あらゆることについて、人間というのは案外、人の考え方に、知らず知らずの間に合わせることに巧みな動物ですから。他の動物もそうかもしれないけど。共謀して嘘をつく可能性は、けっこう多いのです。

 それと、量子という概念を光について発見したドイツの科学者プランク(※)。当時はまだ、量子物理学ができていない頃に、量子が必要だということを示す、光の研究をした人がいます。

※マックス・プランク(1858-1947):ドイツの物理学者で量子論の創始者の一人。「量子論の父」とも呼ばれている。1918年ノーベル物理学賞「エネルギー量子の発見による物理学の進展への貢献」。

 プランクは「物理学における考え方の変化は多数決によって決まる」というようなことを言っていました。多数決と言っても、科学者の間のですよ。そういう面もあるのですね。

―科学者のコミュニティーの外から見ると、科学はすごく客観的に見えるけど、実際は科学者のコミュニティーの中で、より多くの人と脳内イメージが共有されたかで決まるということですね。

 そうですね。「最終的には選択されたものが正しい」かどうかは、「相当なチェックを受けた後に確立される」と言った方が良いのでしょうけど。少なくとも、あることが発見された後の数年間は、多数決によって決まっている。そう言っているのですね、プランクは。

 ですから、自然科学がつくりあげられる時は、社会科学と同じなのですよ。多数決によって、ある程度、興味の対象として、認知を受けるというプロセスがあるのです。ただ、科学者の一部に言わせると、自然科学と他の科学の違いは、たった一つのある法則が発見された時、たった一つの法則に合わない事象が見つかっただけで、その法則は駄目になるという、チェック機能が(自然科学には)働く。

 一方、自然科学以外の学問では、多数のことが何となく説明できて、たった一つのことがうまくいかなかったとしても、その考え方を放棄する理由にはならない。自然科学はチェック機能が強い、と強調される方もいますね。まぁ、それはそうかもしれません。

 ですから、物理学者なんかは、他の学問分野の人に比べて気の変わり方が早い、と言うのですかね。たった一つのことが起こると、「あぁ駄目だった」と諦める。一方、他の心理学者や法学者だと、そんなことは実際になくて。たった一つのことで否定されても、それはone of themで、どうってことはないというのですか。チェック機能が自然科学を正常にしている、と強調される方もいまして、それはそうかもしれないですけど。でも僕は、あまりそういうことを強調するのは好きではないですね。

 むしろ自然科学の方が、経済学や何かよりも、おもしろいと僕は思うのですけど。なぜ僕がおもしろいと思うかはわかりませんが。なぜおもしろいか?という脳内過程を調べた方が、良いと思いますけどもね。


■極めて抽象化されたものは潜在的に人間の興味を惹くのかもしれない

―それ、おもしろそうですね(笑)

 心の中に報酬をもらうと活性化する報酬システムって、あるんですね。何か良いことがあると、それに対して強く反応するネットワークがあるのです。それで自然科学である考え方が成功すれば、ある意味の報酬ですから、報酬系が働いていると思うのです。

 この頃、脳科学でよくやっているのは、被験者に賭けをさせて、非常に儲かった時には、報酬系のどこがどういう風に働いているか、儲けの量に応じて働き方が大きくなるかどうか、ということを調べる経済脳科学というものがあるのですよ。自然科学について、そんな実験はやっていないのですが。自然科学をやって、ある程度うまく行った時に、報酬系がどういう風に働くかを調べると、案外大きいと思うのですけど。これもやってみないとわからないですね。

―イメージで言いますけど、お金儲けるのと、自然科学やっておもしろいのと、脳の働く場所が微妙に違いそうな気がしますが、どうでしょうか?

 今のところ、そういう証拠はありませんけど。報酬系はほぼ同じ場所ですが、それが細分化されているかもしれませんが。どうなんでしょうかね。ちょっとわからないですけども。

 「科学はおもしろい」と言う人が多いですね。特に高校生や若い人が、なぜ宇宙科学のことが好きかは、よくわからないのですが、非常に好きなのですね。宇宙の成り立ちは自分の生活とは直接関係ないのですが。そういう極めて抽象的で、身近なことでないことについて、なぜ若い人が、(一部かもしれないし、ある程度学習しているのでしょうが、)興味を持つかは本当は良くわかりません。

 けれども、赤ん坊が最初に興味を持つのは言葉やなんかでして。4歳くらいまでに言葉を覚えて、わりに器用に喋るというのは、やっぱり、極めて関心があるはずなのですね。言葉と同じような構成の仕方をしている自然科学も、もしかしたら言葉と同じように、潜在的に、人間の興味を惹くものかもしれないですね。

 そうでないと、どうして若い人が宇宙科学とか、ああいうことに興味を持つのか、本当はよくわからないですが。小柴君と二人で年10回くらい基礎科学の教室を開いているのですが、宇宙科学の講演をある人に頼むと、わりと聞きに来る学生さんが多いですね。

 どうしてか、ちょっとわからないですけど、何となく極めて抽象化されたものに対する関心というのは、何かあるのですかね。あるいは、逆にわかりやすいのかもしれないですけど。いろいろわからないことがたくさんありますね。


■自分の心はわからないのが事実

―今回、武田さんからお話伺っていて、武田さんは毎回、「こうだ」と言い切るのではなくて、これもこの前提ならこう言えるけど、その前提をよく理解していなければ、それは本当かどうかわからないと、毎回仰っているのが印象的でした。と言うのも、もはや昔の話になりますが、自分が中高生の頃は、「こういうものだ」と断定系で言われることが日頃多かったので、その分そういうものだろうという風に、固まったものとして、ずっと鵜呑みにする習慣があったのです。もちろん、そうしなければ知識として積み重ならない側面もあるのでしょうが、その一方で「だったら、これ以上疑問に思っても仕方ない」と、どこかで思い込んでいる部分が強くあったと思うのです。ですから、一つひとつのことは、よくよく考えてみれば、この前提がこう変わってしまえば、実はそうとは言い切れない可能性を常に含んでいる、という武田さんのお話を形にすることに価値を感じました。

 そうですね。本当に、そうだと思うのですね。いつか、4,5年前かな。高校生相手に、「科学する心の働き」という講演を東京で3時間したのですよ。あとで高校生から「先生は正直だ」と言われましたね。ふふふ(笑)

 僕はね、幸か不幸か、いろいろな偉い先生と会う折があって。結構、いろいろなノーベル賞を貰った科学者とつきあったことがあるのですけど、彼らは正直ですよ。第一線でやっている人は、やっぱり、いつも迷っていますよ。嘘か本当か。

 だいたい、自分の心はわからないというのが、事実でして。脳の働きには、いろいろな調べ方があるのですが、脳が働くと、エネルギーを使うでしょう? 脳で使われるエネルギーの95%以上は、意識にのぼらない脳の働きに使われているのです。つまり、何を考えているかわかっている、意識にのぼっている脳の働きに使われるエネルギーは5%以下。さっきの宇宙のエネルギーと、似ているでしょう?(笑)自分が何を考えているか、本当はいろいろやっているわけですけど、95%はわかっていない。ですから、正直言って、自分が何を考えているか、わからないはずなんです。

 ある脳科学者は、「脳の暗黒エネルギー」と言っているのですよ。暗黒エネルギーは95%以上、多分そうなのです。ですから案外、自分では意識しないし、意識にのぼらないけど、脳内にバックグラウンドミュージックがかかっているのですね。

 科学者ですと、科学のことを無意識に考えているかもしれませんが、どんなバックグラウンドミュージックを奏でているかで、実際に何かやるときの脳の働きは、左右されていると思います。ですから、95%以上の「脳の暗黒エネルギー」の使い方を知らないと、心の働きはわからないわけです。つまり本当は、自分のことは、あまりよくわかっていないはずなのですよ。

 物事をあまり断定的に、5%の部分を使って言うのは、嘘をつくのと変わらないかもしれません。わりと最近、ここ4,5年で、そういうことがわかってきて。でも、いろいろな脳科学者をテレビなんかで見ると、皆、嘘をついていて。まぁ、断定的に喋らないと、おもしろくないのかもしれないですけど。

―誠実に話す科学者ほど、「それで結局、何なのですか?」と言われがちですね。

 それは、しょうがないですよね。一般の人が理解するのは難しいと思います。だいたい、すべての人が同じ内容の学習を受けることは、本当は間違っていて。いずれにしても、あまり難しい質問をされると、わからないですね(笑)。科学とは何か、考えたことがない。考えたことがないと言うと、おかしいのですけど。いろいろな人が科学とは何かを書いておられるから。

 そうですねぇ、ハイゼンベルク(※)って、知っていますか?不確定性原理の発見者の。ハイゼンベルクが、いつだったかな、今から45年くらい前、仙台に来たことがあるのですよ。そこの松下会館(現在は東北大学百周年記念会館)で素粒子の統一理論の講演をするために。

※ヴェルナー・ハイゼンベルク(1901-1976):ドイツの理論物理学者。行列力学と不確定性原理によって量子力学に絶大な貢献をした。1932年ノーベル物理学賞「量子力学の創始ならびにオルト、パラ水素の発見」

 僕はその当時、東大にいましたが、「ハイゼンベルク先生を仙台に連れていってくれ」といわれ、先生と3泊4日くらいの二人旅をしました。その時、僕がびっくりしたのは、東北大の学生さんが多かったのでしょうね、松下会館の1階と2階が満杯で、2000人くらい聞きにこられた。素粒子の統一理論という、聞いてもおわかりにならないお話を、皆さん聞きに来た。これはえらいものだと思って。そのハイゼンベルク先生も、心の科学に興味を持っておられていましたね。歳とると皆さん、そうなるのですかね、何かに成功した先生ですと。

 コンラート・ローレンツ(※)という、動物行動学者がドイツにおられて。ミュンヘン郊外の研究所に一度、友達と二人で、ローレンツ先生の研究所を見せてもらったことがありました。灰色ガン(鳥)のひなを、彼は生まれた時から育てて、一緒に湖水を泳いだりして。その鳥にとってローレンツ先生は自分の母親だという「刷り込み」という現象を確立して、ノーベル賞をもらった人です。

※コンラート・ローレンツ(1903-1989):オーストリアの動物行動学者。刷り込みの研究者で、近代動物学を確立した人物の一人として知られる。1973年ノーベル生理学・医学賞「個体的および社会的行動様式の組織化と誘発に関する研究」

 ローレンツ先生のところで夕飯をご馳走になって、いろいろ研究所を見せてもらって、僕はそんなに偉い人だという実感がなかったのですけど、その一週間後、ノーベル賞をもらうことが決まりました。そういう人と話していると、断定的なことは言わないですよ、確かに。一般の人たちに説明する時は、多少白黒はっきりさせないと、しょうがないですけどね。ですから、一般の人に科学とは何か、ということを質問されたら、もっと断定的に返事をしなければいけないのでしょうけど。今日は、専門家に質問されたみたいな気分です。

―とは言え、武田さんが一番リアルに感じていることに、一番伝える力があると思っています。それがたとえ断定系ではなくても、断定的に言い切れないことそのものが、武田さんのリアルに感じる科学とはそもそも何かをあらわしていることが、逆に伝わると思いました。

 だいたい頭の中には、評価システムというのがありましてね。評価システムも、おもしろいものなのですよ。あることが起きた時、次にこういうことが起こるのは何十%かと、常に評価しているのです。あることが起こる可能性が、80%の時と40%の時で、評価している神経細胞の活動の度合いが違うのですよね。ですから、けっこう人間というのは、いろいろ関心があるものについては、意識にはのぼらないですけど、評価し続けているのです。評価しないと、進歩しないのです。

 この評価システムには、評価が間違ったときの修正システムもありましてね。けっこう意識にはのぼらないですけど、なんか自動的にうまく学習するようなシステムにはなっているのですね、びっくりするくらい。

―それは、95%の「脳の暗黒エネルギー」の働きに入っているのですか?

 そう、95%の中には、そういう働きも入っています。もちろん95%の中には、休息して何も考えていない時や、眠っている時に使われるエネルギーも入っていますけどね。それでも休憩中や睡眠中に、けっこう繰り返し学習していますね。びっくりする。ただし95%と言ったのは、本当は人によって違うかもしれない。そんなにたくさんの人を調べたわけではないですから。ちょっとよくわからないのですけど...

 よくわからないことばっかりですね。

―武田さん、本日はありがとうございました。



武田暁さん(東京大学・東北大学名誉教授、平成基礎科学財団理事)